中古文学の流れを学ぶ① 
~漢詩文と和歌の隆盛~

日本文学を学ぶ

中古文学の時代背景

桓武天皇が平安京に遷都した794年(延暦3年)から、
鎌倉幕府が成立した12世紀末までの時代(平安時代)を、
文学史の区分で「中古ちゅうこ」と呼びます。

『桓武天皇像』(延暦寺 蔵)

貴族政治の時代だった平安時代の文学は、
主に貴族階級の人々によって発展していきました。

また、当時の貴族たちに広まっていった仏教(密教)の影響も強く表れています。

平安時代の政治や文化は唐を模範としていたため、
文学の世界でも、漢詩文が公的なものとして扱われました。

初期の中古文学は男性貴族による漢詩文が中心となっていました。

一方で、私的な文学としての和歌は、漢詩文の影響を受けつつも、
国風文化の発展に伴い宮廷文学としての地位を築いていきます。

古今和歌集こきんわかしゅう』のように、天皇が編纂を命じる勅撰和歌集の編纂も始まります。

9世紀後半ごろから普及し、私的な場で和歌などに用いられていた平仮名ひらがなは、
散文にも用いられるようになりました。

10世紀から11世紀にかけての摂関政治の時代には、
宮廷や後宮、摂関家の女房たちが担い手となり、
物語や日記など、仮名文学の最盛期が訪れます。

11世紀後半になると、摂関政治から院政へと時代は移り、
説話や軍記、歌謡などを中心に、貴族文化に庶民・武士の文化が入っていきました。

漢詩文の隆盛

平安時代、漢詩文は公的な文学として最高の地位を得ており、
男性貴族にとっては官人として欠かすことのできない教養になっていました。

9世紀前半には、嵯峨さが天皇淳和じゅんな天皇の勅命で、
勅撰漢詩集である『凌雲集りょううんしゅう凌雲新集りょううんしんしゅう)』『文華秀麗集ぶんかしゅうれいしゅう』『傾国集けいこくしゅう』が編纂されました。

同じ時期に活躍したのが、真言宗しんごんしゅうの開祖である空海くうかいです。

空海の肖像(真如様大師)

彼は唐から帰国し、詩集『性霊集しょうりょうしゅう』や詩論『文鏡秘府論ぶんきょうひふろん』、仏教書である『三教指帰さんごうしいき』など、
多くの著作を残しています。

9世紀末になると、菅原道真すがわらのみちざねが登場しました。

彼は漢詩文を唐の模倣から日本独自の表現へと発展させ、日本漢詩文の模範とされています。

代表的な著作に詩文集『菅家文草かんけぶんそう』と詩集『菅家後集かんけこうしゅう』があります。

菅原道真像

11世紀初めには藤原公任ふじわらのきんとうによる『和漢朗詠集わかんろうえいしゅう』、
11世紀後半には藤原明衡ふじわらのあきひらによる『本朝文粋ほんちょうもんずい』が編纂されました。

和漢朗詠集』は漢詩・漢文・和歌を集めた、朗詠のための詩文集、
本朝文粋』は平安時代初期から中期の漢詩文427編を分類・収録した漢詩文集です。

これらの作品は、中古時代の漢詩文の1つの到達点であるとされています。

和歌の発展

9世紀末頃から、貴族たちの家や内裏・後宮で、
歌合うたあわせや歌会が盛んに開催されるようになっていきます。

歌合とは、複数人の歌人の歌を2首ずつ組み合わせて優劣を決めるというものです。

歌合は、参加者が左方・右方に分かれての集団戦で行われることも多くありました。

この時代の代表的な歌人に、『古今和歌集』の序文に記された六歌仙ろっかせんがいます。

六歌仙とは、僧正遍昭そうじょうへんじょう在原業平ありはらのなりひら文屋康秀ふんやのやすひで喜撰法師きせんほうし小野小町おののこまち大伴黒主おおとものくろぬしの6人です。

六歌仙の図、喜多川歌麿画

905年(延喜5年)には、醍醐だいご天皇の勅命により、
初の勅撰和歌集『古今和歌集こきんわかしゅう』が撰進されます。

撰者を紀貫之きのつらゆき紀友則きのとものり凡河内躬恒おおしこうちのみつね壬生忠岑みぶのただみねが務め、
和歌を漢詩と並ぶ宮廷文学となっていきました。

『古今和歌集』の中でも、紀貫之による「仮名序かなじょ」は初の歌論として高く評価されています。

また、『古今和歌集』には紀淑望きのよしもちによる「真名序まなじょ」もありますが、こちらは漢文で記されたものです。

『古今和歌集』は、掛詞や序詞、縁語などの様々な修辞を用いた技巧性、
優雅で繊細な感情表現などから、以後の古典和歌の基礎となりました。

10世紀半ばには『後撰和歌集ごせんわかしゅう』、11世紀初めには『拾遺和歌集しゅういわかしゅう』が撰集されます。

この2つと『古今和歌集』とを合わせて、三代集さんだいしゅうと呼びます。

『後撰和歌集』の撰者は後宮の昭陽舎しょうようしゃ(梨壺)で編纂にあたったことから「梨壺の五人なしつぼのごにん」と呼ばれ、
『万葉集』の訓読も行いました。

梨壺の五人には大中臣能宜おおなかとみのよしのぶ清原元輔きよはらのもとすけ源順みなもとのしたごうなどがいます。

平安京内裏図。「梨壺」とあるのが昭陽舎。

『拾遺和歌集』から約80年後の『後拾遺和歌集ごしゅういわかしゅう』の時代になると、
和歌の作風にも変化が現れてきます。

平安時代後期から末期にかけ、『金葉和歌集きんようわかしゅう』『詞花和歌集しかわかしゅう』『千載和歌集せんざいわかしゅう』などを経て、
鎌倉時代初期になって『新古今和歌集しんこきんわかしゅう』が誕生しました。

『新古今和歌集』では、感覚的浪漫的な美を重視する新たな歌風が完成しています。

『古今和歌集』~『新古今和歌集』までの8つの勅撰和歌集を八代集はちだいしゅうといいます。

これまで見てきた勅撰和歌集だけでなく、
個人の歌を集めた私家集も多く編纂されました。

私家集は勅撰和歌集の編纂にあたっての資料としても活用されています。

平安時代の代表的な私家集としては、中期の『和泉式部集いずみしきぶしゅう』、

後期の『散木奇歌集さんぼくきかしゅう』(源俊頼)、末期の『長秋詠藻ちょうしゅうえいそう』(藤原俊成)、『山家集さんかしゅう』(西行)などがあります。

源俊頼朝臣(菱川師宣筆)

また、歌合が流行したことに伴い、和歌に関する理論が確立されていきます。

代表的なものとしては、藤原公任『新撰髄脳しんせんずいのう』、源俊頼みなもとのとしより俊頼髄脳としよりずいのう』、藤原清輔きよすけ袋草子ふくろぞうし』などの歌論が著されました。

最後に

ここまで中古文学の時代背景と、和歌や漢詩文の発展について説明してきました。

次回は、中古文学における歌謡や物語について取り扱います。

それでは。

中古文学の流れを学ぶ② 
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