中世文学を学ぶ① 
~和歌から連歌、深まる歌論~

日本文学を学ぶ

中世文学の時代背景

源頼朝が鎌倉幕府を打ち立てた12世紀末から、
1603年(慶長8年)の江戸幕府成立までの時代を、文学史の区分で「中世」といいます。

不安定な政治体制と繰り返される戦乱により、「下剋上」の風潮が広まっていくなか、
民衆は浄土真宗日蓮宗などの新仏教に救いを求めていました。

安城御影(親鸞聖人像)

政治権力の中心が貴族から武士へと移り変わるにつれ、
文学も武家や庶民へと広がっていきます。

それに伴って、文化の流行も京都から鎌倉地方へと広がっていきました。

こうした動きの中で、伝統的な貴族文化と武士や庶民の文化が相互に影響を与え、
説話軍記物語連歌などの発展や、という新しいジャンルも登場してきます。

また、世相の変化は人々の価値観の変化にもつながっていきます。

戦乱が相次ぐ不安定な社会にから隠遁しようとする無常観に満ちた隠者文学いんじゃぶんがくや、
仏教の広まりを反映した僧侶たちによる文学がその代表といえるでしょう。

また、中古文学までの王朝的な美意識から、
「幽玄」「有心」といった美意識へといった変化も見られるようになりました。

変容していく社会と、変わりゆく人々の意識・価値観が、
それまでの伝統とぶつかり合うことで、
新たな文化が次々と生み出されていったのが中世という時代です。

勅撰集の時代と深まる歌論

『新古今和歌集』から十三代集へ

鎌倉初期に成立したのが、八代集の最後の作品である『新古今和歌集しんこきんわかしゅう』です。

それ以降も、『新勅撰和歌集しんちょくせんわかしゅう』から『新続古今和歌集しんしょくこきんわかしゅう』まで、
十三代集といわれる13の勅撰集が作られました。

1つ1つの勅撰集の間隔も短く、
中世は政権と和歌とが密接に結びついた時代だったと言えます。

さて、それでは代表的な勅撰集を見ていきましょう。

まず、『新古今和歌集』は後鳥羽上皇ごとばじょうこう藤原定家ふじわらのさだいえを中心に撰集されたものです。

『新古今和歌集』では、藤原俊成としなりが提唱した「幽玄ゆうげん」「有心うしん」といった概念を、
藤原定家が「余情妖艶の体」に発展させました。

伝藤原信実筆 鎌倉時代

捉えがたい深淵微妙な趣の歌風を持つ和歌が重視されるようになっていきますが、
そこには貴族階級が政治権力を失い没落していったことの影響も見て取ることができます。

新古今調しんこきんちょう」とも言われるその歌風では、
余韻をかきたてる体言止めたいげんどめ、七五調の初句切れしょくぎれ三句切れさんくぎれ本歌取りほんかどりなどが多用されました。

藤原俊成と定家の業績により、御子左家みこひだりけは歌道家としての地位を確立します。

定家の息子である藤原為家ためいえの時代ののち、
御子左家は二条家にじょうけ京極家きょうごくけ冷泉家れいぜいけの3つの家に分かれていきました。

大覚寺統だいかくじとうという皇室の系統と結びついた二条派にじょうはと、
持明院統じみょういんとうという皇室の系統と結びついた京極派きょうごくはとは互いに勢力を争う中で、
それぞれの歌風を確立していきます。

京極派の歌風は斬新・革新的なもので、『玉葉和歌集ぎょくようわかしゅう』『風雅和歌集ふうがわかしゅう』という勅撰集を残しました。

しかしながら、歌壇の主流を占めたのは二条派で、
二条派の伝統的な歌風が近世の堂上とうしょう歌壇へと受け継がれていきます。

代表的な私家集~『金槐和歌集』から六家集~

鎌倉時代の私家集として高名なのが、鎌倉幕府第3代将軍だった源実朝みなもとのさねともの『金槐和歌集きんかいわかしゅう』です。

その歌風は格調高く、おおらかで重厚味ある万葉調まんようちょうとして後世で高く評価されました。

源実朝像(『國文学名家肖像集』収録)

そのほかに中世の代表的なものとしては、以下の4つの歌集があります。

これに平安時代末期の藤原俊成『長秋詠藻ちょうしゅうえいそう』、西行さいぎょう山家集さんかしゅう』を合わせて、
六家集ろっかしゅうと呼ばれます。

・藤原良経よしつね秋篠月清集あきしのげっせいしゅう
・藤原定家『拾遺愚草しゅういぐそう
・藤原家隆いえたか壬二集みにしゅう玉吟集ぎょくぎんしゅう)』
慈円じえん拾玉集しゅうぎょくしゅう

歌論の深まり~『古来風体抄』など~

平安時代を経て、歌論は芸術論として一層成熟していきます。

代表的な歌論として、以下の著作があります。

・藤原俊成『古来風体抄こらいふうていしょう
・藤原定家『
近代秀歌きんだいしゅうか』『毎月抄まいげつしょう
鴨長明かものちょうめい無名抄むみょうしょう
正徹しょうてつ正徹物語しょうてつものがたり

藤原俊成(菊池容斎・画、明治時代)
この中で、室町時代の歌僧である正徹は藤原定家を尊崇しており、
幽玄」という概念に関する独自の解釈を行いました。

言葉で言い表せない奥深い美しさ、風雅な心の在り方を説いた彼の考えは、
連歌にも影響を与えていきます。

早歌と小歌

鎌倉時代から室町時代にかけては、武家を中心として、
七五調を主とした早歌そうか宴曲えんきょく)と呼ばれる長編の歌謡が流行しました。

一方、庶民の間では短詩型の歌謡である小歌こうたが流行し、
室町時代には小歌を収集した『閑吟集かんぎんしゅう』『宗安小歌集そうあんこうたしゅう』などが作られます。

『閑吟集』では定まった形式はなく、恋の歌や享楽的な歌が多いのが特徴です。

連歌の流行

中世で流行したのが、それまでは和歌の余興という位置付けだった連歌れんがでした。

連歌には滑稽さを重視する「無心連歌むしんれんが」と風流を重視する「有心連歌うしんれんが」があり、
後者がまず発展していきます。

連歌を専門とする地下じげ連歌師も登場し、堂上歌人たちとの交流の中で、
連歌はその芸術性を高めていきました。

南北朝時代には、連歌の地位向上を目指し、
二条良基にじょうよしもとが『応安新式おうあんしんしき』や連歌論書『筑波問答つくばもんどう』などを著して連歌のルールを定めます。

二条良基は准勅撰連歌集である『菟玖波集つくばしゅう』も編纂しました。

二條良基像

室町中期には、連歌師の心敬しんけいらに学んだ飯尾宗祇いいおそうぎによって、
二番目の准勅撰連歌集である『新撰菟玖波集しんせんつくばしゅう』が編纂されます。

これにより、高い芸術性を持つ正風しょうふう連歌が大成し、
連歌の黄金時代とも呼ぶべき時代が訪れました。

同時期の代表的な作品には以下のものがあります。

・『水無瀬三吟百韻みなせさんぎんひゃくいん
・『
湯山三吟百韻ゆのやまさんぎんひゃくいん

宗祇は京都だけでなく、各地の大名に招かれ、連歌の指導や古典の授業を行うなど、
全国規模で活躍した連歌師でした。

京と地方の文化を伝達した彼は、東常縁とうのつねよりから「古今伝授こきんでんじゅ」を受け、
三条西実隆さんじょうにしさねたかにそれを伝えたことでも有名です。

「古今伝授」とは、古今和歌集の解釈を中心や歌学、関連分野の諸学説を、
講義や注釈書、切紙と言われる秘伝を記した紙などにより、
師から弟子へと門外不出で受け継いでいくというものです。

宗祇像
(山口県立山口博物館所蔵)

一方で、芸術性を高めていく連歌の流れに反するように、
もともとのゲーム性や面白みを重視した「無心連歌」の流れから、
俳諧はいかい連歌が発展を見せます。

代表的なものとしては、山崎宗鑑やまざきそうかん新撰犬筑波集しんせんいぬつくばしゅう』、
荒木田守武あらきだもりたけ守武千句もりたけせんく』などが挙げられます。

この流れは、江戸時代の俳諧へと繋がっていくこととなりました。

最後に

今回は、中世文学の時代背景、
和歌や連歌、歌論の発展を見てきました。

次回は中世の漢詩や擬古物語、歴史物語などを取り上げていきます。

それでは。

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