五山文学の成立
中世に入ると、宋や元で学んだ僧や渡来僧など、禅僧が漢詩文の担い手となっていきます。
背景には、鎌倉幕府や室町幕府が禅宗を保護したことがありました。
京都五山や鎌倉五山と呼ばれる禅宗寺院を中心として、
僧侶たちは公家とも交流し、詩文集を作成しました。
代表的なものには、義堂周信『空華集』や絶海中信『蕉堅藁』があります。
これらは総じて五山文学とも呼ばれています。
義堂周信と絶海中信はともに臨済宗の僧侶で、五山文学の双璧ともいうべき人物です。
ちなみに、京都五山と鎌倉五山とは、以下の寺院を指します。
・鎌倉五山(左から第一位~第五位)
建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺
・京都五山(左から別格、第一位~第五位)
南禅寺(別格)、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺
擬古物語 ~『無名草子』『住吉物語』など~
13世紀初めに、藤原俊成女が著したとされる『無名草子』は、
多くの物語について論じた価値ある物語評論でした。
この本の中で書かれていることから、今では残っていない物語の内容や作者を窺い知ることができるという点でも、『無名草子』は非常に貴重な評論であるということができるでしょう。
鎌倉時代には、平安時代の作り物語に強い影響を受けた物語がいくつも作成されました。
それらは擬古物語と呼ばれ、代表的なものとしては、以下の作品が挙げられます。
・『住吉物語』
・『松浦宮物語』
・『しのびね』
・『石清水物語』
ともすれば平安文学の模倣のようにも考えられがちな擬古物語ですが、
それぞれの作品ごとの凝った趣向や工夫を見て取ることもできます。
しかしながら、貴族社会の衰退に伴って、擬古物語も作られなくなっていきました。
歴史物語 ~「四鏡」の成立と、歴史論『愚管抄』~
「四鏡」の成立
平安時代の『大鏡』『今鏡』に続き、12世紀末ごろに『水鏡』、14世紀に『増鏡』が成立します。
これらの歴史物語は、合わせて「四鏡」と総称されています。
『水鏡』は神武天皇から『大鏡』までの時代を描写しており、
『増鏡』は後鳥羽上皇から後醍醐天皇までの時代を記載したものです。
歴史物語はやがて軍記物語が中心となっていくため、
『増鏡』は王朝物語史の最後を飾る作品でもあります。
『源氏物語』『栄花物語』といった平安時代の物語を強くリスペクトした作風で、
後世に至るまで高く評価され、読み継がれてきました。
『愚管抄』に代表される歴史論
不安定な中世の社会は、それまでの歴史を振り返り、現在までの転換を論じる史論の登場を促しました。
1221年の承久の乱の頃には、天台宗を統轄する延暦寺の住職である天台座主だった慈円が、
『愚管抄』を著しました。
日本の初代天皇である神武天皇から第84代の順徳天皇までを、
貴族の時代から武士の時代への転換と捉え、その歴史を記しています。
南北朝時代には、南朝家臣の北畠親房が『神皇正統記』を著し、
天皇中心の歴史観を示しました。
軍記物語 ~『平家物語』の誕生~
政治権力の中心が貴族から武士へと移っていった中世は、戦乱の時代でもありました。
それを反映して、合戦を主題とする軍記物語がジャンルとして確立されます。
平安時代の『将門記』『陸奥話記』は漢文体で、出来事を記録するという性質の強いものでしたが、
鎌倉時代に入ると、和漢混交文で物語的な要素を多く取り入れた軍記物語が登場していきます。
この時代の代表的な作品が、『保元物語』『平治物語』『平家物語』です。
なかでも、『平家物語』は軍記物語の頂点ともいうべき作品であり、
平氏の栄枯盛衰を「諸行無常」「盛者必衰」という言葉に表される無常観と共に描いています。
合戦の描写も躍動的である一方、戦乱のなかで翻弄される公家や女性、
子どもたちの悲劇も描き、後世にも多くの影響を与えました。
能や浄瑠璃、歌舞伎など、『平家物語』は後世の芸能に多くの題材を提供しています。
また、平家物語にはいくつもの異本があり、
琵琶法師たちが「平曲」として語り継いだ「語り本」と、
読み物としての「読み本」があります。
そのほかには、南北朝の動乱を描いた『太平記』、
曽我兄弟の仇討ちを描いた『曽我物語』、源義経の生涯を一代記的に描いた『義経記』があります。
代表的な軍記物語
・『保元物語』
・『平治物語』
・『平家物語』
・『太平記』
・『曽我物語』
・『義経記』
最後に
今回は、中世の五山文学や擬古物語、軍記物語などを見てきました。
次回は御伽草子や日記物語、随筆などのジャンルを取り上げていきます。
それでは。
~御伽草子、『方丈記』、『宇治拾遺物語』能や狂言~
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