近世文学を学ぶ③ 
~人形浄瑠璃、歌舞伎、国学など~

日本文学を学ぶ

人形浄瑠璃 ~竹本義太夫と近松門左衛門~

室町時代、牛若丸うしわかまる浄瑠璃姫じょうるりひめとの恋愛を描いた『浄瑠璃御前物語じょうるりごぜんものがたり』が作られます。

琵琶や扇拍子を使った演出は「浄瑠璃節じょうるりぶし」と呼ばれました。

そこに三味線や操り人形といった演出が加わって、
音楽と文学、演芸という3つの要素が一体となった人形浄瑠璃にんぎょうじょうるりが成立します。

それをさらに発展させたのが竹本義太夫たけもとぎだゆうで、
彼は義太夫節ぎだゆうぶしといわれる豪快華麗な曲節を生み出しました。

ちなみに、浄瑠璃における「太夫」とは「語り」を担当する人のことをいいます。

1684年(貞享元年)、大坂の道頓堀に竹本座という小屋を開いた竹本義太夫は、
近松門左衛門の『出世景清しゅっせかげきよ』という作品を上演します。

近松門左衛門像(画賛は近松自筆)

さらに、1703年には『曾根崎心中そねざきしんじゅう』が大人気となり、
近松門左衛門は竹本座の専属作者となりました。

一方、そんな竹本座としのぎを削ったのが豊竹座とよたけざです。

豊竹若太夫とよたけわかだゆうは紀海音を専属の作者とし、
八百屋お七歌祭文やおやおしちうたざいもん』などで人気を博しました。

この両者の競争によって、人形浄瑠璃は黄金期を迎えます。

のちには、竹本座の竹田出雲たけだいずも、豊竹座の並木宗輔なみきそうすけらが登場したほか、

作品では、『菅原伝授手習鑑すがわらでんじゅてならいかがみ』『義経千本桜よしつねせんぼんざくら』『仮名手本忠臣蔵かなでほんちゅうしんぐら』など、

現代にも受け継がれている名作が誕生していきました。

『義経千本桜』 四段目の切「河連法眼館」の場。

歌舞伎 ~江戸時代の総合芸術~

歌舞伎の始まりは、江戸時代初期の出雲阿国いずものおくにによる「かぶき踊り」だと言われます。

出雲阿国

歌舞伎のスタイルは出雲阿国に始まる女性による女性歌舞伎から、

やがて少年が演じる若衆わかしゅ歌舞伎、そして成人男性が演じる野郎やろう歌舞伎へと移り変わっていきました。

その背景には、女性歌舞伎や若衆歌舞伎が売春の温床になっていたことがあり、
幕府がそれを禁じるに至ったということがありました。

元禄期に入ると、歌舞伎の世界に2人のスターが登場します。

上方の坂田藤十郎さかたとうじゅうろうと江戸の市川団十郎いちかわだんじゅうろうです。

坂田藤十郎は、優美な色男の恋愛を中心とする、
柔らかみのある和事わごとという演技様式を確立させました。

一方、市川団十郎は荒々しく豪快な歌舞伎である荒事あらごとを完成させます。

初代 市川團十郎

その後の時代(宝暦、明和)には、並木正三なみきしょうざ奈河亀輔ながわかめすけらによって、
大規模な舞台装置や転換技術を用いたエンターテインメント性の高い歌舞伎が誕生していきました。

そののちには、並木五瓶なみきごへいという歌舞伎作者が江戸に移って、
上方の歌舞伎が江戸の歌舞伎にも影響を与えます。

文化文政期には、四世鶴屋南北つるやなんぼく東海道四谷怪談とうかいどうよつやかいだん』などの生世話物きぜわものが人気を博すと、
幕末から明治にかけては河竹黙阿弥かわたけもくあみが『三人吉三廓初買さんにんきちさくるわのはつがい』などの白浪物しらなみものが登場し、
江戸の歌舞伎は最盛期を迎えました。

ちなみに、生世話物とは、当時の町人の生態を描いた現代劇である「世話物」のなかでも、
特に写実的な演出、演技が濃いものを指します。

また、白浪物とは、盗賊を主人公とした一連の世話物の演目の通称です。

歌川豐國画『三人吉三廓初買』

和歌と国学 ~賀茂真淵、本居宣長らの登場~

近世初期には、公家や武士がこれまでの和歌の伝統を受け継ぎました。

これを堂上歌壇とうしょうかだんといいます。

中でも、戦国武将・細川幽斎ほそかわゆうさい細川藤孝ほそかわふじたか)は古今伝授こきんでんじゅを受け、
二条派の歌学を集大成しました。

細川から和歌や連歌を学んだ松永貞徳まつながていとく木下長嘯子きのしたちょうしょうしは、
その後より自由な歌風を目指し、俳諧や斬新な和歌で後世に影響を与えています。

時代が進み、古典の研究が深まっていくと、
新たな和歌を生み出そうとする動きが生まれていきます。

梨本集なしのもとしゅう』を著した戸田茂睡とだもすい
『万葉集』を研究して伝統的な歌学を批判した契沖けいちゅうなどが代表的です。

契沖は国学の祖ともいわれ、『万葉代匠記まんようだいしょうき』という書籍を残しています。

『万葉代匠記』は『万葉集』の注釈書で、
文献に根拠を求める実証的な研究方法で国学の基礎となりました。

契沖

国学はその後、荷田春満かだのあずままろ賀茂真淵かものまぶち本居宣長もとおりのりなが平田篤胤ひらたあつたねといった学者たちによって引き継がれていきます。

『万葉考』を著した賀茂真淵は、古代の実直でおおらかな歌風を「ますらをぶり」と高く評価しました。

彼の弟子にあたる本居宣長は古典の研究から古代の「まことの道」を研究し、
国学を大成します。

彼の代表的な著作には『古事記伝こじきでん』『源氏物語玉の小櫛げんじものがたりたまのおぐし』などがあります。

歌人でもあった彼は、『鈴屋集すずのやしゅう』といった歌集も編纂しました。

本居宣長

一方、賀茂真淵らと立場を異にする国学者としては、京の小沢蘆庵おざわろあんがいます。

彼は『古今和歌集』を重視し、
比喩は技巧を使わず、ありのままの感情を表現する「ただことうた」を理想の歌風としました。

その考えを受けた香川景樹かがわかげきは、「桂園派けいえんは」とも呼ばれる和歌の流派を興した人物で、
『古今和歌集』を重視した自然体の歌風「しらべのせつ」を提唱しています。

香川景樹『国文学名家肖像集』より

また、幕末には、京都や江戸だけでなく地方でも個性的な歌人が登場しました。

代表的な人物としては、越後の良寛りょうかんや越前の橘曙覧たちばなあけみなどがいます。

漢学・漢文学・蘭学 ~政治と学問~

江戸幕府は封建制度の維持という目的もあり、儒学、とくに朱子学しゅしがくを活用しました。

徳川家康に仕えた林羅山はやしらざんの一派から新井白石あらいはくせき室鳩巣むろきゅうそうといった学者が登場し、
朱子学は政治的に重要な地位を占めるようになります。

新井白石肖像

そうした動きに反発するように、陽明学ようめいがくを重んじる中江藤樹なかえとうじゅや、
古義学派こぎがくは伊藤仁斎いとうじんさい古文辞学派こぶんじがくは荻生徂徠おぎゅうそらいらが登場しました。

漢詩文は儒者を中心として発展し、
初期には石川丈山いしかわじょうざん、中期には服部南郭はっとりなんかく太宰春台だざいしゅんだい
後期には市河寛斎いちかわかんさい菅茶山かんさざん広瀬淡窓ひろせたんそうらが活躍します。

特筆すべきは頼山陽らいさんようで、優れた漢詩を幾つも残しているほか、
日本外史にほんがいし』で幕末の尊王思想に大きな影響を与えました。

頼山陽像(帆足杏雨筆)

また、当時交易のあったオランダから自然科学や医学などの知識を学ぼうとする蘭学らんがくが起こります。

杉田玄白すぎたげんぱく前野良沢まえのりょうたくによって著された『解体新書かいたいしんしょ』は、
日本における西洋医学の受容を示す貴重な業績です。

杉田玄白はオランダで書かれた原書を翻訳する苦労を『蘭学事始らんがくことはじめ』に記しています。

適塾所蔵『解体新書』

随筆・日記・紀行 ~様々な身分から見た江戸時代~

近世の代表的な随筆・紀行としては以下の作品が挙げられます。

新井白石あらいはくせきおりたくしば
松平定信まつだいらさだのぶ花月草紙かげつそうし
湯浅常山ゆあさじょうざん常山紀談じょうざんきだん
本居宣長もとおりのりなが玉勝間たまかつま
上田秋成うえだあきなり胆大小心録たんだいしょうしんろく
鈴木牧之すずきぼくし北越雪譜ほくえつせっぷ
松尾芭蕉まつおばしょうおくのほそみち

政治家や学者など様々な身分の人々が随筆を残していますが、
北越雪譜』は越後の商人だった鈴木牧之が雪国の風俗・暮らし・方言・産業・奇譚まで雪国の諸相までを書き記した作品になっています。

雪国越後の貴重な民俗・方言・地理・産業史料と位置づけられている、非常に面白い1冊です。

『北越雪譜』二編 巻一

また、松尾芭蕉おくのほそ道』は、伊勢参りなど旅行が盛んになった時代を反映するもので、
その他には本居宣長菅笠日記すげがさのにっき』や橘南谿たちばななんけい東遊記とうゆうき』『西遊記さいゆうき』などが代表的な紀行として挙げられます。

最後に

今回は人形浄瑠璃や歌舞伎といった江戸時代を代表する芸能、
江戸時代に隆盛した思想や学問、
随筆や紀行文について見てきました。

次回はさらに時代が進み、明治時代の文学へと突入します。

それでは。

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