大正文学をリードした漱石・鷗外
1912年、明治天皇が崩御し、乃木希典が殉死するという出来事が起こり、
時代と人との関係、近代人の在り方を題材としてきた夏目漱石や森鷗外は衝撃を受けます。
鴎外はこれ以降、『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』などの歴史小説に着手、
その後『渋江抽斎』などの史伝を生み出しました。
漱石は自我とエゴイズムの相克を掘り下げた『こころ』を描きましたが、
その後半には明治天皇の崩御と乃木希典の殉死が描きこまれています。
また、漱石はその後の『道草』『明暗』でも近代人の自我と孤独を描き続けました。
大正という時代は社会にデモクラシーや自由主義の気風が広がり、
文学においても個性を尊重する市民文学が成立します。
なかでも、鷗外や漱石の作品は後世に影響を与え、
ありのままを描こうとするリアリズム的な自然主義に反対する流れを作り出していきます。
漱石と鷗外という2大巨頭は、近代文学の確立者であり、
その後の大正文学の土台となった存在でもあったのです。
耽美派の文学
明治40年代、森鷗外や与謝野鉄幹らの協力により雑誌「スバル」が創刊され、
耽美派というグループが登場します。
さらに、永井荷風が雑誌「三田文学」を創刊し、耽美派は文壇の一大勢力となりました。
大正期の耽美派をリードしたのは永井荷風と谷崎潤一郎です。
美を至高の価値とする耽美派は次第に享楽的・退廃的な傾向を強めていきます。
永井荷風は、1911年に幸徳秋水ら社会主義者が数多く処刑された大逆事件から、
文学者の無力を痛感し、花柳界に耽溺するようになって、
『腕くらべ』『おかめ笹』などに日常とは隔絶した美に享楽する世界を描きました。
谷崎は『お艶殺し』『痴人の愛』などで、
倫理を反するような倒錯した女性美への崇拝を描き、
悪魔主義との異名を取りました。
耽美派の作家にはほかに、佐藤春夫や久保田万太郎がいます。
佐藤春夫は『田園の憂鬱』で世紀末的な倦怠感を描き出し、
久保田万太郎は『朝顔』で下町情緒溢れる作品を描きました。
白樺派の文学
雑誌『白樺』には、武者小路実篤・志賀直哉・有島武郎といった、
自然主義にも耽美派にも与さない作家たちが集まります。
彼らはいずれも上流階級の出身で、
その作風はロシアの文豪トルストイに影響を受け、
理想主義や人道主義的な立場から自我や個性を伸ばして生きることを主張するものでした。
武者小路実篤は白樺派の思想的な中心人物で、
白樺派の理念を実践する「新しき村」を建設しました。
代表作『友情』では友情と愛情の狭間で苦悩する青年のエゴイズムを肯定的に描いています。
志賀直哉は『清兵衛と瓢箪』『和解』『暗夜行路』など、
強烈な自我と潔癖な倫理観を簡潔で的確な文体で表現し、
高度な芸術性を示しました。
有島武郎は社会や労働者階級への関心が深く、
白樺派の内部批判者としての顔も持つ特異な存在でした。
代表作には『カインの末裔』『生まれ出づる悩み』などがあります。
新現実主義の文学
白樺派が大正前期の市民文学を担っていたのに対し、
中期から後期にかけては新現実主義の作家たちが担い手となっていきます。
雑誌「新思潮」「奇蹟」出身の彼らは、
白樺派の強い自己肯定や観念的な理念主義に対して、
合理主義と理知で人生や現実を捉えようとしました。
新思潮派の代表作家芥川龍之介は、『鼻』で夏目漱石の激賞を受け文壇に登場します。
芥川龍之介は古典に題材を求めたり、『奉教人の死』などの切支丹物を描いたり、
虚構として周到に構成され、かつ豊かな叙情性を備えた短編を多く残しています。
また、菊池寛は『恩讐の彼方に』など明快なテーマ性と心理描写を持った作品で、
当代の人気作家となりました。
一方、奇蹟派(新早稲田派)は、私小説の手法をとって自然主義の流れを汲みつつ、
惨憺たる現実や心理を理知を用いて説明しようとする傾向を示しました。
『神経病時代』『死児を抱いて』などの性格破産者物を描いた広津和郎や、
『哀しき父』『子をつれて』など自身の困窮生活を描いた葛西善蔵、
独特の饒舌体でユーモアと悲哀の混じった日常を語った『蔵の中』の宇野浩二らが代表的です。
自然主義の系譜
耽美派や白樺派、新現実主義など、自然主義に反する潮流が生まれる一方で、
自然主義自体も1つの潮流として様々な作品を生み出していきます。
徳田秋声は『爛』『あらくれ』などの作品で市井の女性の愛欲と流転の人生を描き、
人生を観照する作家的態度を完成させます。
田山花袋は実際の事件に取材して脱走兵の心理を描き出した『一兵卒の銃殺』を発表し、
自然主義の新たな局面を開きました。
また、島崎藤村は『新生』で姪との不義の関係を告白していますが、
これは自然主義文学最大の告発小説ともいわれています。
昭和の文学へ
大正末期から昭和初期にかけて、芥川龍之介や有島武郎の自殺という、
1つの時代の終わりを告げるような象徴的な事件が起こります。
1923年(大正12年)の関東大震災と、
大正半ばからの社会主義運動、震災以降の経済不況による社会不安を背景として、
文学の世界ではプロレタリア文学が台頭していきました。
1924年には雑誌「文芸戦線」が創刊され、
葉山嘉樹の『セメント樽の手紙』などが発表されます。
一方で、震災後には大衆消費文化が発展し、
新世代によるモダニズム文学が始まりました。
雑誌「文芸時代」には若手作家が集合し、
横光利一や川端康成などの鋭敏で新しい感情表現が人々に驚きを与え、
新感覚派と呼ばれました。
最後に
今回は大正文学の流れについて見てきました。
次回は昭和前期、第二次世界大戦下までの文学史を見ていきます。
それでは。
~プロレタリア文学の台頭と崩壊~
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