明治初期の小説
戯作文学
明治維新の時代、西欧文明が日本に流入し、様々な形で社会の近代化が推進されていきます。
しかしながら、社会制度や行政といったハード面での西欧化が先行して行われ、
美術や文学といったソフト面での変革には時を要しました。
明治10年頃までの小説は江戸時代の流れを受け継ぐ戯作文学が中心で、
開化の風俗を滑稽に描いたものや、急激な欧化を批判する作品があります。
代表的な戯作者である仮名垣魯文は『西洋道中膝栗毛』『安愚楽鍋』で、
文明開化の風俗を面白おかしく描写しています。
成島柳北『柳橋新誌』は江戸の花街柳橋の風俗を描き、
明治維新が柳橋に及ぼした変動を風刺的に捉えた作品で、
独特な瀟洒な漢文体で一世を風靡しました。
翻訳小説
明治10年代に入ると、西欧への憧れなど欧化熱の高まりを背景に、
西欧の社会・風俗を紹介するために翻訳された小説が登場します。
ジュール・ヴェルヌ『八十日間世界一周』やリットン『花柳春話』がその代表的な作品です。
前者は川島忠之助による、後者は織田純一郎による翻訳で、
どちらも当時の人々に人気を博しました。
ちなみに、『花柳春話』はリットンの『アーネスト・マルトラヴァーズ(Ernest Maltravers)』と、
その続編『アリス(Alice)』を合わせたものとなっています。
その他の翻訳小説には、
坪内逍遥によるシェークスピアの翻訳である『自由太刀余波鋭鋒』などがあります。
政治小説
新政府への反発から生まれた自由民権運動を背景として、
政治的理想を民衆に伝える目的で書かれた政治小説も登場していきます。
矢野龍渓『経国美談』や東海散士『佳人之奇遇』、末広鉄腸『雪中梅』が有名です。
こうした小説の背景には、
当時のディズレーリやヴィクトル・ユーゴーらの西欧政治小説の影響もありました。
政治小説は1890年の国会開設などを経て、その後は形を変えて様々な展開を迎えることとなります。
政治思想の表明のための手段という側面の強い政治小説ですが、
政治を題材としたことによる小説自体の地位向上といった副次的な効果もありました。
近代小説の誕生 ~坪内逍遥と二葉亭四迷~
政治小説の流行と同じ明治10年代後半ごろから、
文学を見直そうという小説改良運動が登場してきます。
それまでの政治小説などの啓蒙的で実利的な文学とは異なり、
より西欧近代文学を本質的に理解した新たな文学を志向する運動です。
坪内逍遥は文芸評論『小説神髄』でそれまでの勧善懲悪的な戯作文学を否定し、
人情や世態風俗を写実的に描くことが小説であると主張しました。
彼が写実主義を唱えたこの評論は、
近代文学の基本であるリアリズムを初めて理論立てたという意味で、
日本文学史に残る作品であると言えます。
しかし、坪内逍遥による小説『当世書生気質』は戯作文学の影響から脱しきれず、
文体や心理描写の点でも不十分なものでした。
坪内逍遥の功績を引き継ぎ、日本近代小説の基礎を築いたのが二葉亭四迷です。
彼は文芸評論『小説総論』を著して逍遥の理論を補強し、
小説『浮雲』で言文一致体による心理描写によって近代の人間像を描き出しました。
さらに、ロシア文学作家ツルゲーネフの小説『あひびき』『めぐりあひ』を翻訳し、
二葉亭四迷は口語文体を一層洗練させています。
彼が完成させた口語文体は、その後次第に一般化していきました。
擬古典主義の登場 ~急激な欧化の反動~
明治20年代に入ると、社会の急激な欧化への反動として、
江戸時代の文学の流れを継ぐような擬古典主義が登場します。
その中でも中心的な役割を果たしたのが、
江戸時代の井原西鶴に影響を受けた尾崎紅葉と幸田露伴でした。
この時代に人気を博したこの2人は「紅露」と並び称されました。
日本初の文学結社「硯友社」のリーダー的な存在だった尾崎紅葉は、
『二人比丘尼色懺悔』『金色夜叉』などの作品で、
義理や人情の世界を流麗な文体で描いています。
幸田露伴は東洋思想に基づき、精神的な修練や芸道に邁進する理想主義的な人間像を、
『風流仏』『五重塔』などで描いて名声を確固たるものにしました。
機関紙「我楽多文庫」を創刊するなど、文壇の一大勢力となった「硯友社」は、
明治20年代後半に入ると日清戦争後の社会情勢を背景に労働問題や社会問題に関心を置く小説を生み出していきます。
川上眉山や広津柳浪による観念小説・深刻小説(悲惨小説)と呼ばれるものがそれで、
社会の不合理やその中で深刻な境遇にある人々の姿を描きました。
浪漫主義へ
日清戦争は日本にとって社会の近代化を一層進める契機となりました。
社会の矛盾が明らかになっていく一方で、人々に自我意識の目覚めと個としての解放、
夢や自由を求める精神が生まれていきます。
そのことを反映するように、文学においても、写実主義的な「硯友社」に対して、
西欧浪漫主義やキリスト教の影響を受けた人々を中心に浪漫主義が登場しました。
この潮流を先導したのが森鷗外でした。
『舞姫』は鴎外自身のドイツ留学の経験に基づいて、
近代知識人の自我の芽生えを典雅な文体で描いた青春性の高い作品です。
その後、雑誌「文學界」が拠点となり、浪漫主義は文学運動として大きな影響を与えていきます。
詩歌と評論がメインではありましたが、小説について見てみると、
徳富蘆花、国木田独歩、樋口一葉、泉鏡花などに濃厚な浪漫主義的作品が生まれました。
自然主義文学の隆盛
フランスを中心とした自然主義文学は、明治30年代の初め頃に日本に流入します。
日本で最初の自然主義文学作品とされるのは1906年(明治39年)の島崎藤村『破戒』で、
被差別部落出身の主人公の苦悩と自己解放への希求を描いた本格的なリアリズム小説でした。
また、田山花袋は自身の女弟子に対する恋心を赤裸々に告白した『蒲団』を発表します。
これにより日本の自然主義文学は、
自己告白を柱とした人生の真実の希求を1つの方向性として確立されていきました。
他には徳田秋声の『新世帯』『足迹』『黴』や、
正宗白鳥『何処へ』などが自然主義の作品として挙げられます。
1910年(明治43年)前後に自然主義は最盛期を迎えますが、
次第に私生活の告白と人生の暗い側面の強調に傾いていき、私小説へとつながっていきます。
高踏派と耽美派
明治40年代には自然主義が隆盛しますが、
一方では夏目漱石や森鴎外らが独自の文学を生み出した時代でもありました。
深い教養と広い視野を持ち、近代における個人と社会の問題を追求した作風で、
夏目漱石は余裕派(高踏派)と呼ばれました。
漱石は、猫の目を借りたユーモラスな文明批評『吾輩は猫である』で人気を博したのち、
『三四郎』『それから』『門』で個とエゴイズムの問題に取り組んでいます。
森鷗外は夏目漱石の活躍に刺激を受け、
浪漫主義の傾向を保持した『青年』『雁』などで、
本能に対する理性の優位性や愛の目覚めを叙情的に描きました。
また、反自然主義の文学として、
美を至上の価値として追求する耽美派の作家が登場します。
永井荷風はアメリカやフランスへの留学経験を『あめりか物語』『ふらんす物語』に書き、
その後は明治の表層的な西欧文明を嫌悪して『すみだ川』など艶美な江戸情緒を描きました。
また、谷崎潤一郎も『刺青』『麒麟』などで女性の官能美を描いています。
最後に
今回は明治時代の戯作文学から自然主義、高踏派や耽美派に至る流れを見てきました。
次回は大正時代に入っていきます。
それでは。
~耽美派、白樺派、新現実主義など~
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