上代文学の流れを学ぶ② 
~漢詩文、史書、地誌~

日本文学を学ぶ

漢詩文の流行

中国の隋・唐の文化が日本にもたらされた結果、
日本の貴族階級の間で漢詩文を作ることが流行しました。

当時の日本は唐に倣った律令国家体制を目指しており、
漢語での作文が官吏の試験の1つとされたため、
その教養が貴族・知識人階級にとって必須のものとなっていきます。

751年(天平勝宝3年)には、現存する最古の漢詩文集『懐風藻かいふうそう』が編纂されました。

代表的な作者としては大友皇子おおとものみこ大津皇子おおつのみこ淡海三船おうみのみふねが挙げられます。

大友皇子(弘文天皇)

『懐風藻』に収録されている作品は、『万葉集』と比べて恋について詠んだものが少なく、
仏教思想の影響もわずかに認められる程度です。

当時の漢詩はあくまでも宮廷人による中国文化の模倣という側面が強く、
感情や生活、思想を表現するものではありませんでした。

史書の編纂

672年、壬申の乱じんしんのらんでの勝利の結果天武天皇が即すると、
天武天皇は『古事記こじき』『日本書紀にほんしょき』の編纂を命じ、
皇族・諸豪族の間で系譜や神話に関する統一された認識を作ることに乗り出します。

その目的は、神の時代から続く血統による、
大和朝廷の王権、天皇支配の正当性を強調するためでした。

また、天武天皇にとっては、壬申の乱という激しい政争の結果として即位した、
自分自身の権威を正当化することも目的の1つでした。

天武天皇の崩御後、稗田阿礼ひえだのあれが誦習していたものを太安万侶おおのやすまろが撰録し、
現存する日本最古の書物『古事記』を完成させます。

真福寺収蔵の『古事記』

文体は漢字の音訓を交えた変体漢文であり、
神話や伝説を交えた文学的情緒豊かな史書として有名です。

また、『日本書紀』は、国家事業として公式に編纂された最初の歴史書(正史せいし)であり、
中国に対して日本の立場を主張するという目的がありました。

『日本書紀』は720年(養老4年)に舎人親王とねりしんのうらの手によって完成します。

律令国家の成立を史実に基づき、
編年体へんねんたい(年代順に出来事を配列する形式)で記録しました。(全30巻)

日本書紀 巻第十の写本

文体は『古事記』とは異なり純粋な漢文体で、
『日本書紀』以降の6つの正史を六国史りっこくしといいます。

ちなみに、六国史は以下の通りです。

日本書紀にほんしょき(720年)   代表的な撰者:舎人親王とねりしんのう

続日本書紀しょくにほんぎ(797年)  代表的な撰者:菅野真道すがのまみち

日本後紀にほんこうき(840年)   代表的な撰者:藤原冬嗣ふじわらのふゆつぐ

続日本後紀しょくにほんこうき(869年)  代表的な撰者:藤原良房ふじわらのよしふさ

日本文徳天皇実録にほんもんとくてんのうじつろく(879年) 代表的な撰者:藤原基経ふじわらのもとつね

日本三代実録にほんさんだいじつろく(901年) 代表的な撰者:藤原時平ふじわらのときひら

地誌の編纂

史書の編纂に加えて、当時の朝廷は中央集権的な律令国家を実現するため、
地方の文化や風土、地勢を把握する必要がありました。

713年(和銅6年)に元明げんめい天皇は勅命を下し、諸国で『風土記ふどき』が編纂されます。

『風土記』の中には主に地名の由来、名産品、土地にまつわる逸話などが漢文体で収録されています。

完本で現存するのは『出雲国風土記いずものくにふどき』のみで、
部分的に残っているのが常陸・播磨・豊後・肥前の4か国のものです。

最後に

ここまで、上代の文学史を見てきました。

次回から、時代は平安時代へと移り、日本文化は一層の発展を遂げていきます。

それでは。

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