上代文学の流れを学ぶ① 
~口承文学から和歌へ~

日本文学を学ぶ

上代文学の時代背景

794年(延暦3年)に平安京への遷都が行われるまでの時代を、
文学史の区分で「上代じょうだい」と呼びます。

まだ文字のなかった時代に口伝えで広がっていった神話や歌謡が、
日本文学の起源だと考えられます。

古代日本では氏族で構成された諸豪族を大和政権が統一し、
大王⇒天皇を頂点とする中央集権的な政治体制を整えていきました。

4世紀末からは中国大陸や朝鮮半島からの渡来人が日本に流入し、
鉄器や乗馬、農耕といった技術が伝えられます。

渡来人から伝えられたものの1つに漢字があり、
それまで文字の無かった日本は文字というものを手に入れることになりました。

6世紀半ばには仏教が伝来し、大陸の文化も浸透していきます。

中国へ遣隋使や遣唐使が派遣され、中国の学問や文化の輸入が活発化しました。

日本は中国文化から大きな影響を受け、7世紀初めに飛鳥あすか文化が栄えました。
法隆寺の金堂釈迦三尊像は飛鳥文化を代表する仏像です。

金堂釈迦三尊像

645年(大化3年)の中大兄皇子や中臣鎌足らによる大化の改新以降、
律令国家体制が整えられていきます。

その結果、7世紀末には中国文化に日本的な解釈を取り込んだ白鳳はくほう文化が生まれます。
薬師寺東塔などが白鳳文化の代表的な作品です。

その後、710年(和銅3年)には平城京への遷都が行われ、
ここでは貴族を中心とする天平てんぴょう文化が開花しました。

東大寺正倉院、唐招提寺、興福寺の阿修羅像など、
天平文化はインドやペルシャなどの文化も取りいれた華やかな文化でした。

この時代に、『万葉集』『古事記』『日本書紀』『風土記』といった様々な書物が生み出されます。

それでは、ここからは上述の内容を詳細に説明していきます。

口承文学と記載文学

日本人はすべての自然物に神が宿るのだと考え、
「言葉」にも霊魂が宿るという「言霊信仰ことだましんこう」が生まれました。

文字がなかった時代、人々は歌や語り、踊りによって神話や歌謡を伝え、
それがやがて日本の文学の源流となっていきます。

そうした時代の文学を口承文学こうしょうぶんがくと呼びます。

その後、渡来人によって漢字が日本にもたらされると、
日本人は文字による表現という手段を手に入れ、記載文学きさいぶんがくが始まります。

漢字だけでは表現できない部分については、漢字の意味や音を利用して、
日本語を表現することを試みました。

その1つが万葉仮名まんようがなです。

万葉仮名はその漢字の意味ではなく音や訓によって日本語を書く方法であり、
のちにカタカナやひらがなへと発展を遂げていきます。

万葉仮名 額田王の歌の一部


祝詞や宣命

言霊信仰が元になり、神をまつる儀式で唱える言葉である「祝詞のりと」や、

天皇の命令を伝える言葉「宣命せんみょう」が生まれました。

これらは「宣命書き」と呼ばれる特徴的な表記法で書かれており、
のちに漢字仮名交じりの文章の源流となっていきます。

宣命書きの登場は、かなの発展を考える上で非常に重要な出来事でした。

歌謡から和歌へ

日常生活の中で、もしくは祭りの場において、
楽器や舞踊にあわせてうたわれた歌。

それが原形となって、古代歌謡こだいかようとして形式が定まっていきます。

古代歌謡は『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』などに残されていますが、
『古事記』『日本書紀』に収められたものを記紀歌謡ききかようと呼ばれます。

記紀歌謡は重複を除いて約190首あり、
万葉時代およびそれ以前の日本の歌の最も古い姿をとどめています。

記紀歌謡の多くは物語・説話・伝説と結びつけられ、
恋愛,戦闘,狩猟,祭祀など古代人の生活全般が明るく素朴にうたわれました。

次の歌は、記紀歌謡の中でも非常に有名なものです。

原歌:夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁尾爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁
  (やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを)

解釈:八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

万葉集の誕生

歌謡は次第に音数が固定化していき、以下のような形式に分かれていきます。

長歌ちょうか 5・7・5・7・5・7…7

短歌たんか 5・7・5・7・7・

旋頭歌せどうか 5・7・7・5・7・7

これらを広い意味で和歌と呼びます。(狭い意味では、和歌=短歌となります)

歌謡が集団的に行われるものであったのに対し、
和歌は個人の心情を詠むものでした。

現存はしていませんが、柿本朝臣人麻呂歌集かきのもとのあそみひとまろのかしゅうなどの私家集しかしゅうは早くから編纂されてきました。
私家集とは個人の歌集を指します。

和歌の広がりを受けて、先行する私家集などを素材として編纂されたのが、
現存する最古の和歌集である万葉集まんようしゅうです。

大和時代から8世紀後半に間に詠まれた和歌を、大伴家持おおとものやかもちが編纂したと考えられています。

大伴家持

全20巻、約4500首の和歌が収録されており、天皇から庶民まで、
多様な身分の人々が作った歌を見ることができます。

東国の人々の暮しに密着した東歌あずまうたや、
九州北部を警備する兵士の故郷への思いを詠んだ防人歌さきもりのうたなど、

歌が詠まれた地域も広範囲におよんでいるのも1つの特徴です。

内容としては以下の3つに大別されます。

相聞そうもん ⇒ 男女の恋を詠んだ歌

挽歌ばんか ⇒ 人の死を追悼する歌

雑歌ぞうか ⇒ 相聞、挽歌以外の公的な歌

また、和歌が人々の間に広まった結果、上代の末期には和歌を巡る評論も生まれてきます。

その1つが、藤原浜成ふじわらのはまなりが中国詩学を応用して著した『歌経標式かきょうひょうしき』です。

彼はこの現存する最古の歌論書のなかで、和歌の在り方や起源、
修辞的欠落について指摘しています。

最後に

今回は、日本文学の起源ともいえる口承文学から、
日本文化を代表する表現形式である和歌の誕生にいたるまでを見てきました。

次回は、上代において、和歌以外にどのような書物が編纂されていったかを見ていきます。

それでは。

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